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승정원일기 1118책 (탈초본 62책) 영조 31년 4월 10일 계축 36/36 기사 1755년  乾隆(淸/高宗) 20년

崇文堂에서 圓點儒生科次해 논의하고 성균관 대사성 徐命臣 입시하여 성균관 물력 확충에 대해 논의함

○ 乙亥四月初十日未時, 上御崇文堂。圓點儒生科次入侍時, 行都承旨金善行, 假注書金瑞應, 記注官李煒, 記事官持試券, 諸試官, 以次入伏。藝文提學趙明履, 禮判李益炡, 依下敎同爲入侍。上曰, 收券幾軸乎? 善行曰, 十六軸二張矣。上曰, 提學先讀告祭祭文草, 可也。明履讀祭文草。上曰, 主意當以六日環衛, 驚動涉降, 爲節脈矣, 更爲釐正, 可也。仍命益炡曰, 儀注草持入乎? 益炡曰, 入來矣。上命善行讀之。上曰, 戊辰三月告由祭文草入之。行禮後, 世子進表裏後, 諸臣陳賀, 禮判出去, 儀注釐正以入, 可也。仍命明履曰, 告文中, 當入夏享不得親行之意矣。上曰, 今欲製慈殿致詞文, 而文義與常時異矣。命承旨書之, 遂製致詞文, 命編次人讀之。上曰, 大司成來待乎? 善行曰, 來待矣。上曰, 注書出去, 大司入侍事, 分付。瑞應, 承命出來, 率徐命臣入侍。命臣曰, 本館物力, 本來不敷之中, 日減月縮, 今則方在十分地頭矣。自庚申以後, 公用未下之數木, 則爲百四十餘同, 錢則爲二千五百餘兩之多, 已極寒心, 而當此慶科, 入路生進, 咸聚賢關, 則其試具供饋之資, 皆無出處, 誠爲切悶矣。自前朝家每以各司所在錢木米間, 劃給本館, 以爲補用之道, 而近來朝令不行, 雖已請得之物, 防塞不給, 昨年請得戶曹木二同·兵曹本一同, 尙今不給, 本館, 將何以成樣乎? 宜有別樣軫念之道, 然後可以支撑矣。上曰, 自前請得之數, 爲幾何耶? 命臣曰, 米則或數百石, 木則或十餘同, 錢則或數百兩, 其規不一矣。上曰, 昨年所許者, 爲先依數劃給事, 分付兵戶曹。命臣曰, 本館諸般需用, 專責於奴婢貢, 而近來外方奴婢, 只報逃而不報生産, 用度漸廣, 而貢入日縮, 本館之如是凋弊, 實由於此, 推刷後奴婢逃故之類, 此後, 則自本官卽爲充定其代, 毋或減數之意, 定式施行, 何如? 上曰, 議于査正廳, 日後更稟, 可也。命臣曰, 本館屬蝟島·楸子島·良下浦, ·諸處, 漁鹽船稅, 自前一年所捧, 爲二千一百九十二兩, 而移屬均廳之後, 自該廳給代, 只是二千兩, 見縮至於一百九十二兩之多, 以此之故, 本館物力, 去益凋殘, 所縮錢一百九十二兩, 更自該廳, 加劃以給, 則庶爲補用之道矣。上曰, 依爲之。命臣曰, 朝家軫念典僕, 特許居販, 以爲生理, 而近來典僕, 貧殘日甚, 前大司成臣金陽澤, 請得各司公債, 而或給或不給, 禁衛營一千兩·摠戎廳二千兩·兵曹一千五百兩·戶曹一千兩·惠廳三千兩, 或諉以調達, 或謂之有待, 終不出給, 此與給難捧爲異, 一邊受來, 一邊還報, 無一分見失之患, 而如是持難, 實未可曉, 各司未給之錢, 依數盡給事, 分付, 何如? 上曰, 依爲之。命臣曰, 慶尙道昆陽地, 有多率寺, 自國初屬之本館, 載在太學成典, 每年收捧紙束, 以補尊經閣冊紙之用矣。庚午年陵墓外, 願堂革罷時, 此寺則獨不見罷, 其後同邑棲鳳寺僧徒, 呈于備局而罷之, 許多寺役, 移徵於多率寺, 故不勝支當, 來訴本館, 以願爲屬寺, 如前供役矣。本館紙用最多, 而旣是三百餘年所屬之寺, 則到今革罷, 有違於庚午年不罷之本意, 且其稱冤如此, 依前更屬於本館, 則似爲兩便, 更令備局, 稟處, 何如? 上曰, 曾有以此事上言矣。都承旨金善行曰, 上言, 尙未啓下, 故未得見矣。上曰, 依前爲之, 可也。命臣曰, 本館奴婢貢木, 癸酉年災減之代, 其數爲六同四十七疋, 此是惠廳啓下之物, 故自昨年, 累次論報, 尙不出給, 如得此災減之代, 則庶爲目下支用之道矣。上曰, 卽爲出給事, 分付, 可也。命臣曰, 本館奴婢推刷, 每六年一次擧行, 已有定式, 而庚午年推刷之後, 今年爲當次矣, 待秋擧行, 何如? 上曰, 依爲之。以上皆出擧條 命臣曰, 全羅道務安地, 自本館曾爲築堰之事, 作畓收稅矣。年前大水, 忽被破潰, 未免荒棄, 待秋若得若干民力, 則可以更築矣。上曰, 築堰甚虛疎矣, 自本營, 待秋築給事, 分付, 明履, 持祭文草入侍。上曰, 讀之。明履曰, 敎文當自辛壬爲鋪敍矣。上曰, 此則曾已告矣。今番, 則以卽景舒辭, 可也。仍出領相李天輔疏, 命承旨讀之, 善行讀訖。上曰, 承宣見領相乎? 善行曰, 領相出郊時, 臣往見, 則領相曰, 顧此僇辱之人, 幾敢爲重入城闉之顔, 而適値親臨鞫囚之時, 不敢偃臥江郊, 來伏城外, 遽承不敢當之敎, 故不得不冒沒入城, 而繼有扈衛之擧, 故不得出去矣。今則環衛已撤, 實不忍一時淹跡城中, 病勢且沈重, 將出郊坰, 以爲杜門訟愆之計云矣。上曰, 承旨書之。答領相疏曰, 省疏具悉卿懇。頃者入侍, 面諭備悉, 而臨帳殿纔畢, 復尋郊外, 自顧誠淺, 其恧何諭? 噫, 往事若浮雲, 其亦黨習, 向者已諭, 到今初政, 何足慨意? 卿須體慇懃之意, 安心勿辭, 其卽入城, 聽我一諭。仍傳曰, 遣史官傳諭。傳曰, 今番動駕時, 左承旨問安, 右承旨留院。傳曰, 再明日動駕時, 以辰初三刻爲之。傳曰, 旣定庭試, 儒生中, 若有停擧人, 竝解停依前例, 分付本館, 京外一體擧行, 試券畢考後, 出榜。傳曰, 居首進士鄭彦暉, 直赴殿試, 之次生員趙載萬, 直赴會試, 生員李赫胄·趙晸, 各給二分。善行曰, 開場不遠, 而臺諫不備, 合有變通之道矣。上曰, 有闕乎? 善行曰, 諫院則有闕, 而兩司多有呈辭入達矣, 臺諫呈辭, 還給事。榻前下敎  諸臣遂退出。