승정원일기 1683책 (탈초본 89책) 정조 14년 11월 23일 기해 19/21 기사
1790년 乾隆(淸/高宗) 55년
○ 柳文養, 以刑曹言啓曰, 因洪州金判同擊錚原情判付內, 營題足爲證左, 取考京在帳籍, 草記事, 命下矣。依判下, 移文京兆, 考來三式年帳籍, 則判同之父名連, 以萬弼載錄, 其年又爲八十一歲, 而獨未蒙一視之恩, 則其子呼籲, 事理固然, 而加資一款, 有非臣曹所敢擅議, 令該曹, 稟處。今番京外耆老加資之命, 特出於同慶之德意, 而該牧之初不照察, 一委面任, 以致遺漏之擧者, 萬萬駭然。當該牧使, 拿問處之, 該道道臣, 亦難免不審之失, 推考。面任含嫌之說, 旣登原情, 則亦不可不問, 令道臣各別嚴査, 重勘之意, 一體分付, 何如? 傳曰, 允。加資勿施, 只推, 可也。