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승정원일기 1737책 (탈초본 92책) 정조 18년 10월 23일 정축 15/19 기사 1794년  乾隆(淸/高宗) 59년

李儒慶, 以備邊司言啓曰, 卽見濟州牧使沈樂洙災實分等狀啓, 則備陳三邑穡事歉荒之狀, 仍以爲通一島分爲三等, 則本州七十八里內, 稍實爲二十里, 之次爲二十六里, 尤甚三十二里, 大靜二十里旌義三十八里, 竝爲尤甚。當捧新還中, 尤甚里, 十分九, 之次里, 三分二, 稍實里, 折半停退, 除番軍官身役, 折半停退, 奴婢貢米, 男丁大同米, 折半蕩減, 軍兵操鍊停止, 推奴徵債防塞, 營邑需米, 略略收捧, 抄其無依之類, 留接於各其邑公廨及或土窟, 以春間白給餘穀一百五十石及從他區劃百餘石, 分授各邑, 使之饋粥。尤甚丐乞中, 有家戶不入於抄飢者, 以春間還分餘穀二百餘石及麥還餘穀二千餘石, 自今月計口還分, 先爲救活, 而各里饒民, 或有舊穀及貿米者, 計口繼糧外, 錄出餘穀, 分授各其統長, 爲補給之資, 而通三邑當爲付還者, 壯爲三萬七千九百十八口, 弱爲二萬四千七百八十口, 自十月限明年麥登, 先從丐乞之戶, 次次加付, 月三排巡, 則容入米當爲二萬二千二百餘石, 而本土穀留在者二千餘石, 新還當捧二千餘石, 當於種子公料, 狀請移轉穀限二萬石, 次次入來, 一島之民, 日日顒望。而還上停退等事, 所當待狀請回下擧行, 海路漠無期限, 一邊擧行, 一邊狀聞, 事涉擅便, 惶恐待罪爲辭矣。先擧行後狀聞, 自是本州之例, 所陳一倂依狀請施行, 而不爲邑分等, 只爲里分等, 蓋由於俱爲尤甚之致, 而始稱分, 分爲三等, 有若邑分等而末乃只擧里分等者, 殊欠別白, 該牧使推考。飢民之留接於公廨土窟者, 一處多聚, 則易生薰染之氣, 此是賑政之所戒, 使之切勿任置, 善爲分處。饒民餘貯之分授統長, 雖似勸分, 本島事勢, 不可與陸地比論, 亦令從便接濟, 無論饒乏, 期於全保事, 嚴飭分付。穀物之加請與否, 旣捧別下判付, 各別詳審, 俾無過不及之意, 一體分付, 何如? 傳曰, 允。