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승정원일기 1984책 (탈초본 104책) 순조 10년 6월 5일 무자 58/61 기사 1810년  嘉慶(淸/仁宗) 15년

○ 庚午六月初五日辰時, 上御誠正閣。 大臣·備局堂上引見入侍時, 左副承旨曺允遂, 假注書李羲準, 事變假注書裴相仁, 記事官李光文·金陽淳, 左議政金載瓚, 右議金思穆, 刑曹判書沈象奎, 右參贊金履度, 禮曹判書朴崙壽, 戶曹判書朴宗慶, 行護軍閔耆顯·李得濟·李光益·李肇源·李堯憲·李塘, 校理徐長輔以次進伏訖。 載瓚曰, 日熱近甚, 聖體, 若何? 上曰, 一樣矣。 載瓚等曰, 寢睡·水剌之節, 何如? 上曰, 一樣矣。 載瓚等曰, 王大妃殿氣候, 何如? 上曰, 一樣矣。 載瓚等曰, 惠慶宮氣候, 何如? 上曰, 一樣矣。 載瓚等曰, 嘉順宮氣候, 何如? 上曰, 一樣矣。 載瓚等曰, 元子宮諸節, 何如? 上曰, 與前一樣矣。 思穆曰, 二陳湯進御, 至今日爲二十貼, 水剌諸節, 漸有奏效者乎? 上曰, 比前一樣矣。 思穆曰, 醫官方來待閤外, 入診詳察, 更定湯劑爲宜矣。 上曰, 別無可論之症, 姑不必診候矣。 上曰, 次對爲之。 載瓚曰, 卽見全羅前監司李冕膺報本司辭緣, 則以爲, 濟州別儲牟米輸來實數, 爲八千六百七十三石零, 當以本色竝耗捧納, 而右沿牟麥, 近被黃蟊之災, 移轉穀物之竝督, 實無其路, 牟米一石, 代以租二石七斗五升, 從便換作, 待秋收捧, 穀名則何以稱之, 磨勘於何衙門爲辭矣? 本道元牟還, 數旣夥然, 而今以近萬石移轉牟, 添付竝督, 其勢實難, 依狀請準折換租, 待秋捧納, 名以濟州牟代租, 句管於本司之意, 分付, 何如? 上曰, 依爲之。 出擧條 載瓚曰, 卽見全羅前監司李冕膺狀啓謄報, 則以爲, 珍山·礪山·咸悅等三邑雹災, 殆遍一境, 牟麥兩種, 酷被其害, 當此牟還開倉之日, 萬無如數準捧之路, 三邑皮牟眞麥三千五百四石零, 特許作租事, 請令廟堂稟旨分付矣。 三邑雹災, 若是孔酷, 牟麥受傷, 殆遍一境, 民事萬萬驚歎, 本道捧還, 旣無其路, 當年應捧條中皮牟眞麥三千五百四石零, 依狀請許令換租, 待秋捧上, 何如? 上曰, 依爲之。 出擧條 載瓚曰, 卽見公忠監司金蓍根狀啓, 則以爲, 公賑用下各穀折皮, 爲十萬五千三百二十四石零, 許除公私穀, 則不足條折米, 爲七千二百七十六石零, 以嶺南穀中米一千二百十八石零, 補還穀中米四千六百八十六石零, 北穀中米三百三十二石零, 營賑穀中米一千三十八石零, 分排取用, 請令廟堂稟旨會減矣。 劃下賑穀, 若或不足, 則事當狀聞加請, 待備局行會後施行, 而初不狀請, 直爲取用, 末乃請減於賑簿旣勘之後者, 大失格例, 極涉疎率, 該道臣從重推考, 穀物則旣已排用於賑資不足之代, 許令會減, 何如? 上曰, 依爲之。 出擧條 載瓚曰, 今幸兩麥登場, 四道畢賑, 而民生尙在瘡痍, 穀簿無不迷亂, 賑後收拾之難, 殆甚於賑前, 若非自初始事者, 實無以懷保釐刷矣。 凡賑道道臣及守令之瓜後仍任者, 雖使如例差代, 其外則守令, 限今年勿許遷轉, 至於湖南道臣, 瓜旣不遠, 病實難强, 不得已特賜體諒, 而他道則俾無得爲瓜前圖遞之計, 自政院, 另加察飭之意, 分付, 何如? 上曰, 依爲之。 出擧條 載瓚曰, 卽見濬川司所報, 則以爲, 近來川渠之堙塞, 卽由於川內造家投棄汚穢等弊, 而此弊不祛, 則雖濬無益, 庚辰節目中, 疏渠處或有執頉, 則當該參軍部官, 卽地論罪事, 定式截嚴, 而一自辛亥, 五上司外不得推治部屬事, 定式之後, 本司難以句管申飭, 一依庚辰節目, 後舊例遵行爲辭矣。 辛亥定式之後, 除非上司, 則無得推治部屬, 而但濬川司, 則與他司有異, 疏濬之役, 旣在於部字內, 而自本司不得句管, 檢飭部屬, 則果不無多少掣礙之端, 此後則依庚辰節目施行之意, 分付, 何如? 上曰, 依爲之。 出擧條 載瓚曰, 卽見前慶尙前左水使元永冑報備局辭緣, 則以爲, 本營所屬多大·西生·包伊·西平等四鎭, 列在倭路要衝之地, 責應煩苦, 鎭民流亡, 若不及今矯捄, 必致罷鎭之境, 而本營及東萊·釜山·開雲·豆毛, 曾有軍民疊役之弊矣。 本營則前水使狀請蒙頉, 東萊則前府使陳疏蠲免, 釜山則御史書啓除減, 開雲·豆毛則前監司枚報廟堂, 果蒙筵稟, 身布則移送, 責應則會減, 而今此四鎭, 獨未蒙一視之澤, 四鎭疊役軍四百六十八名, 依他例移送於道內七十一州, 包伊·西平之責應於倭館者, 亦依開雲·豆毛例, 會減於儲置, 則可無邊民渙散之慮爲辭矣。 東萊釜山·豆毛·開雲等一邑三鎭軍民疊役之弊, 前因道帥臣狀請及繡啓, 今已蠲免, 而惟此多大·西生·包伊·西平四鎭, 爲敵路要衝, 與三鎭無異, 爲軍民痼弊, 與三鎭無異, 而至於蠲役釐弊之惠, 則及於三鎭, 而不及於四鎭, 宜有向隅之歎, 且非均施之政, 一依東萊三鎭已施之例, 凡移送與會減之節, 從便釐捄, 俾無殘鎭偏苦之弊, 以此分付該道道臣, 何如? 上曰, 依爲之。 出擧條 載瓚曰, 頃因摠戎使李塘狀啓, 北漢山城及公廨寺刹修改物力, 毋論某樣公貨, 從便取用後登聞事, 草記蒙允矣。 卽見該廳所報, 則以爲, 所入物力錢, 合爲三千八百十九兩零, 以本廳所在銀代錢中, 姑先取用爲辭矣。 本城修補之役, 今已告訖, 而所入財力, 旣無從他拮据之道, 已令該廳所在銀代錢, 姑爲取用矣。 依所報以此會減之意, 分付, 何如? 上曰, 依爲之。 出擧條 載瓚曰, 頃以貢市人詢瘼草記中各廛亂廛復設事, 有爛議處之之命矣。 市民之以此呼訴, 前後非一, 而通共許賣, 今已二十年之久, 且當初令甲, 有異於一時試可之意, 今不可遽議, 置之, 何如? 上曰, 依爲之。 出擧條 載瓚曰, 臣有區區所懷, 敢此仰達矣。 日前承宣及院吏處分, 臣意則恐爲過中之擧矣。 承宣職在出納, 凡於疏章, 若有未安者, 則退却, 可也。 或往復而使之改其句語, 亦可也。 不此之爲, 則固有所失, 而在院承旨, 一竝罷職, 倉皇對吏, 景色極爲愁沮, 至若院吏, 皆是蒙騃蠢蠢, 直一蟣蝨之賤, 有何知識乎? 設有知識, 卿宰之疏箚, 渠何敢議到乎? 治罪各有攸當, 若有渠輩之所犯科者, 則只令攸司, 從重科治, 無所不可, 至有命入各營前排閤外棍治之擧, 伊日光景, 都下驚恐, 且聖上威怒, 何等愼重, 而遽加之於此等至賤之流乎, 臣伏聞在昔肅廟朝, 治一憲吏, 仍下敎曰, 宋太祖誤治一吏, 終日不樂, 而予則自治憲吏之後, 殆至終年不樂。 仍命優恤其妻孥, 伊時臣民, 莫不欽仰攢祝, 且孝宗朝, 嘗下敎於先正臣宋時烈曰, 凡於施措, 制怒爲難, 若有可怒之事, 則輒經夜而處之, 庶無過當之擧矣。 文王一怒而安天下, 而猶不大聲以色, 聖人之心法, 有可以仰認矣。 今此處分, 臣則謂殿下治心之工, 有所未盡而然也。 旣往之事, 今不必更爲提達, 而從今以後, 益加審愼於此等處焉。 上命就座, 上曰, 諸宰以次奏事。 象奎曰, 昨年禁釀時勘律, 以大明律私茶條, 杖一百徒三年, 倣而行之矣。 向日大臣所奏, 非所以洞弛酒禁, 大釀及酗酒, 設禁自如, 若有犯科, 則亦宜依此律用之, 而不可不一番經稟, 今者大臣旣登筵, 下詢處之, 何如? 上曰, 大臣之意, 何如? 載瓚曰, 臣已聞之, 而有所酬酢者矣。 大釀酗酒之禁, 固自在, 犯者議以此律好矣。 上曰, 右相之意亦同乎? 思穆曰, 臣亦別無異見矣。 上曰, 依此爲之。 崙壽曰, 今年雨澤, 自春慳閟, 立夏以後, 連爲頻仍, 兩麥旣幸登稔, 三農庶幾無愆矣。 夏至已過, 初庚漸近, 而方當移秧之節, 跨朔旱乾, 一霈尙遲, 言念民事, 誠甚渴悶, 此時圭璧之薦, 恐不容少緩, 初次祈雨祭, 不卜日今初七日三角·木覓·漢江, 依例遣堂下三品官, 虔誠設行, 何如? 上曰, 大臣之意, 何如? 載瓚曰, 初庚不遠, 節序漸晩, 此時祈雨, 一日爲急, 依禮堂所奏, 不卜日設行好矣。 思穆曰, 秧節已晩, 一霈尙靳, 此時祈雨, 不容少緩矣。 上曰, 依爲之。 出擧條  允遂曰, 今日賓對, 兩司諸臺, 無一人進參, 事甚未安, 竝推考, 何如? 上曰, 依爲之。 出擧條 思穆曰, 二陳湯, 將連爲煎進乎? 上曰, 加製以入, 可也。 思穆曰, 後日日次, 則切願特許診察焉。 上曰, 日次前後, 當召見矣。 王大妃殿進御六君子湯, 自今日停止事。 出榻敎  仍令大臣諸宰先退, 又命承史退出, 諸臣以次退出。