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승정원일기 2125책 (탈초본 109책) 순조 20년 2월 30일 병진 29/33 기사 1820년  嘉慶(淸/仁宗) 25년

○ 又以備邊司言啓曰, 卽見全羅監司朴宗薰狀啓, 則以爲, 羅州·珍島等邑漂到船六隻, 俱是大國江南省蘇州府通州等地人之行商漂到者, 而船隻完固, 皆是願從水路還歸, 故衣袴糧饌, 照例題給, 已爲次第發送爲辭。 又見濟州牧使趙義鎭狀啓, 則以爲, 本道前後漂到船, 合九隻, 俱是大國江南省通州等地人之行商漂到者, 而其中四隻, 遇風致敗, 渰死三名, 拯出厚埋, 生存人, 竝爲分載於他漂船, 二隻先已還歸, 三隻候風未發, 越海糧饌, 申飭題給, 敗船竝卽燒火, 而二隻鐵物, 仍爲載去, 二隻鐵物, 以卜重棄置, 其所區處之方, 待備局行會擧行爲辭矣。 羅州·珍島兩處漂船, 旣已還歸, 依已例, 令槐院撰出咨文, 定禁軍, 騎撥下送于灣府, 使之傳給鳳城將處, 以爲轉致北京之地, 濟州漂船, 待其畢送, 形止狀聞, 一體撰送咨文, 兩船鐵物則係是禁條, 不可留置, 卽令運致, 待前頭使行入送, 而先以此意, 咨文中措辭添入, 何如? 傳曰, 允。