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승정원일기 2233책 (탈초본 113책) 순조 28년 9월 5일 임인 36/36 기사 1828년  道光(淸/宣宗) 8년

○ 戊子九月初五日辰時, 上御熙政堂。 王世子侍坐, 藥房入診, 大臣·備局堂上引見同爲入侍時, 提調金鏴, 副提調徐憙淳, 假注書韓宓履, 記事官金鼎集·徐戴淳, 待敎金英淳, 同副承旨尹正鎭, 假注書洪鍾應, 事變假注書丁庠敎, 領議政南公轍, 左議政李相璜, 知敦寧趙萬永, 行兵曹判書朴宗薰, 吏曹判書徐能輔, 漢城判尹洪起燮, 禮曹判書徐俊輔, 行護軍柳相亮·李石求·申絅·朴綺壽, 副應敎權馥, 以次進伏, 醫官李惟鐸·李命運·金殷相, 進伏楹外訖。 公轍曰, 近來日候調和, 聖體, 若何? 上曰, 一樣矣。 公轍曰, 寢睡·水剌之節, 何如? 上曰, 一樣矣。 公轍曰, 中宮殿氣候, 何如? 上曰, 各殿宮氣候一樣矣。 公轍曰, 中宮殿公除奄過, 常膳已復, 玉度漸臻復常之望乎? 上曰, 次次差勝矣。 上曰, 醫官入診, 可也。 惟鐸等以次診候訖, 退伏奏曰, 脈候左右三部調均矣。 曰, 湯劑當更爲議定乎? 惟鐸曰, 湯劑不必更議矣。 上命藥房先退, 等退出。 上曰, 次對爲之。 公轍曰, 卽見全羅監司徐耕輔所報, 則以爲, 本營支放穀丙子未捧折米九千七十四石耗九百七石零, 每年以乙亥賑餘穀, 論報取用, 而夏穀則已盡無餘, 今年又將以秋穀米租取用矣, 徒事割用, 不思變通, 則不出幾年, 穀盡乃已。 就本司句管穀中濟州牟代租一萬三千九百二十七石零, 特爲劃下, 與乙亥賑餘租八千七百五十七石零, 合作本穀二萬二千六百八十五石, 以準丙子未捧之代, 自明年移付營穀, 盡分取耗, 俾補支放爲辭矣。 丙子未捧耗之以乙亥賑餘穀給代, 已成年例, 而賑穀, 又垂乏無餘, 則今此變通之請, 實是不得已者。 依所報許施, 而旣係營穀, 則輒以欠逋與未捧, 報請給代, 事涉煩屑, 此後則更無敢如前襲謬之意, 竝爲分付, 何如? 上曰, 依爲之。 出擧條 公轍曰, 卽見黃海監司沈能岳狀達, 則以爲, 平山府吏奴還逋, 始自辛未壬申停退之初, 今近二十年之久, 元穀虛留, 年加歲增, 重又耗上生耗, 恰爲八千餘石之多, 而犯逋諸漢, 擧皆死亡, 如干生存者之前後督捧, 僅爲一千三百六十六石, 其餘則更無收捧之道, 不得不自本府某樣措處, 以爲充數之地, 而六千餘石之一時準充, 其勢末由, 上頂還逋小米六千六百四十七石零, 特許限八年除耗排捧事, 請令廟堂稟處矣。 欠逋數爻之若是夥多, 揆以糴法, 萬萬寒心。 各年邑倅, 雖已勘處, 其所收殺, 亦不容一時少緩, 而第其久逋, 多成鬼錄。 又其生存, 皆是鶉鵠無依之類, 旣知其難捧而徒事鞭朴, 終無所益。 前此他道及本道, 亦有此等處闊狹之政, 依道臣所請許施, 而限八年除耗排捧之方, 善爲措處, 俾有穀簿充完之地, 何如? 上曰, 依爲之。 出擧條 公轍曰, 卽見黃海監司沈能岳狀達, 則枚擧金川郡守閔致文牒呈, 以爲本郡所屬大興山城餉穀, 合爲六千四百餘石, 而險路運輸, 人力極艱, 爲邑民切骨之瘼, 今若依前分授於大小南面或便近畿邑, 又或依白川郡已例, 下捧於本郡, 則無損於糴政, 庶除其弊源, 移屬與下捧間, 從便變通事, 請令廟堂稟令分付矣。 民爲弊, 固所當念, 餉還變通, 便否難知, 第令開城留守, 商確論報, 以爲從長稟處之地, 何如? 上曰, 依爲之。 出擧條 公轍曰, 卽見統禦使李鍾英所報, 則以爲, 本營穀之入於各年停蕩者, 幾近六千石, 耗條減縮, 支放不足, 輒致每年加下, 又當造船, 工費倍入, 而勢到弩末, 措手沒策, 上項停蕩穀耗六百石, 以各道某樣穀中, 許劃取用, 而如或不然, 則就本府所在勅需穀中米六百石劃下, 一以報加下, 一以爲支用, 而每年四十石式, 自軍需庫措備, 移送於勅庫, 限十五年充報, 事甚便宜爲辭矣。 本穀旣入停蕩, 耗條自致減縮, 支放不繼, 營樣凋弊, 到今不可無矯捄之擧, 而穀竭之歎, 諸路同然, 實無從他着手之處。 至於勅穀, 則雖有所重, 餘儲稍裕, 又有已例, 且排年充報, 與永劃有異, 勅需米六百石, 依所報許令取用, 而若其移報之方, 另加講究, 無或做不似說之意, 一體嚴飭, 何如? 上曰, 依爲之。 出擧條 公轍曰, 崇奬儒學, 王政之所先, 慰悅遠人, 今日之急務, 鏡城故持平李載亨, 眞所謂豪傑之士, 不隨俗而化者也。 文簡公金昌協之爲評事, 載亨負笈從學, 心體躬踐, 久而至於熟, 則敎成於家, 行信於鄕, 能令悖子改行, 去婦復還, 賈豎之眩鬻者, 爲平其直, 一方翕然師尊, 而聲聞日達於京師, 大臣擧其經行, 授桂坊南臺之職, 載亨尤嚴於辛壬義理, 故忠臣金濟謙之被禍也。 載亨躬往弔祭, 人皆惴慄危之, 而不以禍福死生, 動其心, 北方之士, 不盡詿誤者, 其功甚大, 英廟朝必欲徵致, 令監司身往勸駕, 其時監司馳啓, 以載亨負重名而好黨論, 奬用之恐壞世道, 因此而老死蓬蓽, 終於一鄕之善士, 然其興起正學於方馬之俗, 讀書種子, 至今賴而不絶, 臣常見其文集, 心甚慕悅, 向來儒臣之書, 尤有所摭實者, 玆以仰達。 李載亨, 令銓曹特贈亞卿, 俾遐土人士, 有所聳勸, 何如? 上曰, 依爲之。 出擧條 公轍曰, 平安兵使李鐵求, 謂有情病, 而曠癈營務, 連以奴名, 呈狀丐遞矣。 日前摠使, 旣承飭令, 受符察任, 則處義宜無異同, 且重閫癈務, 事體不輕, 而武臣之無難過引, 極爲未安。 從重推考, 嚴加申飭, 俾卽行公, 何如? 上曰, 依爲之。 出擧條  上曰, 大臣就座, 諸宰奏事。 萬永曰, 本廳各樣上納, 本有月限, 事目截嚴, 而近來愆期之弊, 愈往益甚, 第以今年言之, 尙多未納之邑, 揆以法意, 誠極駭然。 各該守令, 所當依式請勘, 而見今秋務方殷, 雖未得一例擧論, 如是申飭之後, 又復遲滯, 拖至深冬, 則自本道, 直爲狀聞論勘之意, 分付。 大抵上納遲速, 專係於道臣察飭之如何, 苟能一遵事目, 趁限考尺, 則上納愆滯, 寧或至此? 自今爲始, 申明舊典, 一或違越, 則該守令草記罷黜, 不飭之當該道臣, 難免重推之意, 竝爲行會諸道, 何如? 上曰, 依爲之。 出擧條 宗薰曰, 南行宣傳官之滿六朔而受司果祿者, 登科後陞六, 纔有定式矣。 前宣傳官李寅熙, 雖未準朔, 旣受司果祿, 則今於登科之後, 不可無區處, 似當陞六施行, 故敢此仰達矣。 上曰, 陞六, 可也。 出擧條 宗薰曰, 前僉使趙晉錫, 前任滿浦僉使, 時未滿十五朔而徑遞, 不得施履歷矣, 依近例, 以曾經邊地履歷施行似好, 故敢此仰達矣。 上曰, 唯。 曰, 本曹鑄錢之歲以爲常, 卽先朝戊申受敎, 而近來曹儲不敷, 排用極艱, 待訓局鑄錢撤罷, 將欲開鑄, 而近者甲山生銅, 無遜倭品, 固當行關設店, 收稅取用, 而開店於無人絶峽之間, 驅入其牟利無賴之輩者, 弊固難言, 事非遽議, 但令前潛採之銅, 多在於北關諸邑, 有錢則可以貿取云。 此則使北關守令中幹事者, 從便貿送, 以爲趁期設鑄之地, 何如? 上曰, 依爲之。 出擧條 曰, 本曹每年公貿生銅二萬八千斤, 彼人稱以騰貴, 每患過期出送, 而每年九送使例給禮單蔘, 爲三十餘斤矣。 以此單蔘之價, 比彼貿銅之價, 則價各爲二萬餘兩, 而臣意則貿銅, 使彼人勿爲出送單蔘, 自我國不爲例給, 以蔘換銅, 似甚便好, 而事係邊情, 有難擅斷, 下詢大臣處之, 何如? 上曰, 大臣之意, 何如? 領議政南公轍曰, 生銅則公貿, 單蔘是贈給, 名色各異, 而蔘給每患相持, 銅出亦多愆期。 今若互換, 事極便利, 彼人如聽從則有利, 雖不聽從, 亦甚無害, 依戶判所奏, 令該院, 差送幹事任譯, 使之從近講定好矣。 左議政李相璜曰, 單蔘所入與公貿銅價, 其數略綽相當, 且倭情日狡, 蔘每生梗, 銅不時出, 若有如是變通之道, 則事甚便順, 而二弊亦當自祛矣。 上曰, 依大臣議爲之, 可也。 出擧條 石求曰, 北漢僧還, 弊至孔酷, 大臣向已稟處矯革, 而元還四千六百石內, 未捧二千五百餘石蕩減, 餘在穀, 俟後從便措處之意, 仰達矣。 臣於其後, 細加料量, 又探僧徒事情, 則留庫夥多, 渠輩難以改色云, 餘在穀二千石零內, 五百石留庫, 每年以無耗出給僧徒, 以爲改色, 其餘千餘石, 作錢付之本廳, 以爲不時公用之需, 何如? 上曰, 依爲之。 出擧條 石求曰, 北漢行宮及公廨, 今已修改矣, 臣於今月望間, 擬將躬往遍審, 故敢此仰達矣。 上曰, 唯。 正鎭曰, 今日賓對, 無一人進參, 事甚未安。 違牌諸臺, 竝推考, 何如? 上曰, 依爲之。 出擧條 公轍曰, 臣有門外飮水調病之所, 而在前亦或有筵稟往來之事, 故敢此仰達矣。 上曰, 從便往來, 可也。 上曰, 承史就座。 命大臣先退, 公轍等退出。 又命退, 承史以次退出。