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승정원일기 19책 (탈초본 367책) 숙종 22년 9월 10일 계해 12/12 기사 1696년  康熙(淸/聖祖) 35년

晝講에 趙泰東 등이 입시하여 杖死한 應先 등에게 恤典을 거행하는 문제, 우박의 災災를 입은 곳에 給災하는 문제에 대해 논의함

    ○ 今日晝講時, 正言趙泰東所啓, 臣有所懷, 惶恐敢達。頃者蠱獄時, 杖死人應先·金天樞等, 設鞫之初, 事出急遽, 未假審愼, 而及今諸賊輸情之後, 冤狀畢露, 雖是輿儓之賤, 死非其罪, 則伏想聖念, 亦必矜惻於斯矣。渰死之人, 尙有恤典, 若應先·金天樞等冤死之人, 宜在所先自朝家, 或給米布, 則實有光於聖德矣。持平柳重茂曰, 若自朝家, 有恤典之加, 則處分得矣。上曰, 予有此意亦久矣, 諸臣之言, 與予意正同, 令該曹恤典擧行也。持平柳重茂所啓, 臣於頃者在鄕之日, 目見農事之失稔, 災異之非常, 欲以初不付種, 全不除草處, 及木花田與雹災尤甚者, 給災之意, 陳疏上請, 而臣於伊時, 有情勢難安之事, 不敢以言官自處, 玆以未果矣。及至還朝後聞之, 則初不付種, 全不除草及木花田, 皆已給災, 而雹災一款, 未及變通, 故有所仰達。去月二十七日, 狂風大作, 起自西北, 終夕不止, 折木拔屋, 雨雹交下, 如注如丸, 田畓各穀, 無不傷損, 而早種租稷, 被害尤甚, 稍有向熟之意者, 盡落於泥土之中, 未有一粒之附在者, 老少農人, 一時聚哭於田畓之頭, 聲徹于天, 其驚心慘目, 有不忍言。國以民生爲本, 而民無其食, 又無其衣, 將何以爲生, 而未知朝家, 以何計策, 以何財粟, 何以救濟乎。一分可救之〈道〉, 只在於給災輕徭, 臣意以爲, 被雹尤甚處, 亦令許給全災, 而但念雹之爲災, 有同驟雨, 數十里之間, 或有來不來之異者, 若諉之被災, 而不分虛實, 一倂給災, 則必有混雜之弊, 而稅入因此太縮, 國用益至難繼矣, 此亦不可不念處。今若別爲事目, 分付各道監司, 使各邑, 分等數詳細報知, 令敬差官, 親自看審於覆驗之時, 而從便給災, 則實惠下究, 而公家所失, 亦不至甚多矣。同知事吳道一曰, 雹災所被之處, 雖曰慘然, 與初不落種之類, 有間, 若開給災之路, 誠有虛實相蒙之弊, 若以此全不給災, 則必有民怨, 臺臣所達, 誠是矣。上曰, 今番雹災, 有同驟雨, 故田穀或傷或不傷, 而昨日京畿監司狀啓, 混稱被災, 殊欠分明, 前頭出巡後, 使之區別啓聞, 被災尤慘處, 令廟堂精量給災, 可也。已上朝報  

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