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승정원일기 23책 (탈초본 432책) 숙종 32년 9월 0일 19/29 기사 1706년  康熙(淸/聖祖) 45년

晝講에 趙泰老 등이 입시하여 水原의 軍士에게 料米를 지급하는 문제에 대해 논의함

    ○ 晝講入侍時, 參贊官趙泰老所啓, 臣纔經水原府使, 欲有所達矣。水原乃畿輔重鎭, 朝令夕發之軍, 殆至六千名, 竝計雜色軍, 則八千軍馬所在處也。兵亂時, 再次勤王, 仁廟, 特下奬諭之音, 其後朝家之顧恤有倍, 其所恃賴, 亞於二軍門, 而最爲踈虞者, 卽還上中無米一節也。孔道巨邑, 一年用度浩繁, 至於軍官·中官[中軍]之料, 以會付還上耗會減, 故耗米不足, 則用其本穀, 本耗俱罄之後, 用常平米, 常平米旣竭, 而用賑廳米矣。賑廳米又盡, 故昨年應下, 亦患不足, 臣以當年還上耗粗, 作米捧置者, 前留竝五百餘石, 而若過一年, 則亦不給矣。平時需用, 則不過軍官中軍等料米, 及直路放下, 而脫有緩急, 許多軍士, 斷無裹糧之勢矣。金益勳, 有別備穀物, 名曰軍需, 屢經凶荒, 未捧者多, 恒留不過五百餘石, 此外亦有逐年所捧之穀, 而軍器修補, 將士賞格, 全靠於此, 緩急聚軍之時, 則見糧不支數日, 無糧之軍, 何處用之乎? 且當三南孔道, 諸道勤王之兵, 往來之際, 饋餉亦難矣。金德基, 以某樣米請得事, 陳疏, 三年後, 備局始回啓, 以更問本府穀物多少後稟處爲辭, 臣臨遞, 不得牒報矣。臣在任時, 大同米二千石, 移換賑廳所用, 今秋當還納賑廳, 此二千石, 若捧留本官, 常時一半留庫爲糶糴, 則緩急可以得力矣。賑廳, 累經凶年, 毋有不足之患云, 而水原至近, 臨時取用, 亦何難乎? 上曰, 水原軍兵, 異於都監軍兵, 儘是大處矣。泰老曰, 連値凶歲, 軍裝服色, 殘弊莫甚, 而大抵是服勞之軍, 致遠則有愈於京師所養之兵矣。同知事李寅燁曰, 國家有畿輔四處, 楊州·長湍·廣州·水原等邑, 夾輔王城, 朝家設置, 意非偶然, 而至於水原, 軍馬爲尤多, 糧餉措置之言, 誠是, 而二千石移轉, 盡數捧留, 則形勢甚難, 一千石捧留, 一千石上納, 似好矣。泰老曰, 有司之臣, 以經用爲慮, 而一千石, 甚爲零星, 且一千石, 若令上納, 則一家之內, 或納京中, 或納本官, 大爲民弊, 若分面各納, 則苦歇不均, 必多稱冤矣。寅燁曰, 二千石, 盡許捧留, 則豈不快哉? 卽今形勢, 難施快政矣。上曰, 一千石先給, 可也。

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