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승정원일기 76책 (탈초본 1372책) 영조 51년 12월 23일 병인 43/49 기사 1775년  乾隆(淸/高宗) 40년

    ○ 執義申應顯書曰, 伏以天佑宗祊, 寶籙無疆, 大朝殿下, 玉體冞康, 院直已撤, 我邸下誕承明命, 代聽機務, 大庭呼嵩, 便殿進饌, 臣民慶忭, 中外惟均。仍伏念, 臣之除此職, 以近年言之, 不啻十餘遭矣, 恩榮所避[被], 𨃃蹶趨承, 固是臣分之所當然, 而有除輒辭, 必遞爲期者, 是豈臣所樂爲哉? 臣於年前, 慘被李迪輔所汚辱, 而迪輔方在兩司合啓中, 臣若出脚而參啓, 則是何異於乘機而報復耶? 其爲嫌隙, 世所共知, 積費逋慢, 一未承膺者, 良以此也。頃因先壟有事, 暫滯鄕廬, 因得寒疾, 淹頓未歸, 中丞除旨, 忽下此際, 不敢遲留, 擔舁作行, 來伏私次, 而目下病狀, 旣甚添劇, 自來情勢, 決難冒膺, 玆敢略入文字, 仰瀆睿聽。伏乞邸下, 俯察臣情病之難强, 亟令鐫削, 仍治臣慢蹇之罪, 以肅朝綱焉。臣旣不敢以言責自居, 而於近日事, 竊不勝慨惋者, 敢此尾陳焉。伏惟我邸下, 春秋鼎盛, 睿智高明, 主鬯震宮, 已多年所, 而我大朝以大堯倦勤之齡, 法重華命攝之擧, 則其光明正大, 俟百不惑者, 爲如何哉? 爲今日臣子者, 孰敢有一毫如何之意, 而彼相臣洪麟漢乃敢以三不必知之說, 挺身陳達於筵前, 嘻噫, 此何心腸? 其所謂不知者, 謂邸下方在沖齡, 而有不足知歟, 謂睿學未就而有不及知歟, 謂國家事初非邸下之所可知歟, 以邸下而不必知國家事, 則誰當知之乎? 究其心跡, 誠不可測, 彼相臣者, 親居肺腑, 最蒙國恩, 不思報效, 敢生不滿之心, 欲沮戲國家大計, 豈不痛哉? 爲今日臣子者, 固當臚列罪狀, 嚴辭請討, 卽秉彝之良心, 臣分之當然, 而惟彼相臣, 勢席父兄, 權傾人主, 威焰所加, 莫敢岐貳。以扶護餘論, 硬作義理, 寧甘得罪於國家, 不敢違拂於權門, 猶恐不爛熳同歸。是以, 大朝命書代理傳敎, 而相臣揮手止之, 則承旨不敢書, 大朝俯詢宰臣之疏, 則都憲謂之深文, 而原任亦敢和同。以此觀之, 則承旨只知有相臣, 而不知有國家, 都憲與原任, 亦知有相臣, 而不知有國家, 義理之晦塞, 極矣, 人心之陷溺, 甚矣。然而懲討不擧, 國是靡定, 至於沈翔雲而極矣。其全篇語意, 閃弄陰譎, 包藏禍心, 顯斥宮僚, 不言溫室樹等語, 指意所在, 萬萬叵測, 此莫非窩窟未破, 根柢盤結, 羸豕躑躅, 將無止息之日矣。其爲他日之憂, 豈有勝言也哉?, 臣謂相臣負國之罪, 不可不明正典刑, 而其餘附從扶護者, 亦當次第鋤治, 各施當律, 斷不可已也。噫, 离明繼照, 無幽不燭, 凡厥罪狀, 莫逃睿鑑, 臣何必縷縷, 而非但沐浴義重, 如此然後, 忠逆可以辨矣, 忠逆辨然後, 義理可以明矣, 義理明然後, 人心定矣, 而庶絶他日無限怪鬼之變矣, 惟邸下留念焉。答曰, 覽書具悉。判府事之不必知筵奏, 豈有他哉? 其心亶出於徒畏事面之重, 未諒義理之嚴而然也, 余所謂大臣當日之事, 謂之失言則可也, 論以無嚴, 則實非本情者, 良以此也。書中云云, 無或過中之甚乎? 至於承旨之不敢書, 坐處稍遠, 未能承聆, 余所目覩, 尤何必深非哉? 噫, 世道之陷溺, 久矣。言出司直, 不顧所言之當否, 先覘上意之如何, 爲今日痼弊, 原任與都憲伊日之奏, 或不坐是歟? 是非旣定, 處分孔昭, 到今更事攻擊, 殊犯已甚之戒。況且大朝五十年盛德大業, 惟是全保世臣, 陶成平蕩之化, 則此豈非余沖人所可仰法者耶? 昨今以來, 臺職軍銜之章, 塡咽公車, 此非我大朝全保世臣之本意也。余庸憂嘆, 爲之繞榻, 爾其勿辭察職。

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