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승정원일기 83책 (탈초본 1537책) 정조 7년 7월 30일 기미 32/41 기사 1783년  乾隆(淸/高宗) 48년

罪人의 처리에 대한 兵曹의 草記

    趙尙鎭, 以兵曹言啓曰, 依傳敎, 打鍾罪人捉來査問, 則洪忠道靑陽居幼學尹光瑠, 年爲二十二歲, 而其所供內, 渠以士族, 居生於尼城地, 年來貧窮, 契活極艱, 贅居於靑陽地妻父故幼學柳遠大家, 而粗通醫書, 意謂入京看病, 或可爲一分糊口之資, 且平生未見京都, 爲其遊覽, 裹糧上來, 行到振威地, 見一西果極大, 其味必好, 故欲以此果, 以爲進上之計, 負來入城, 而進獻無路, 若至打鍾之境, 則似或有上徹之道, 故尋往鐘閣, 仍爲打鍾云云, 而反覆究問, 終始游辭, 一向漫漶, 情狀痛駭, 而平問之下, 難以得情, 依傳敎出付攸司, 以爲過齋後嚴覈勘處之地, 何如? 傳曰, 似非常性之人, 待朝逐送本土, 可也。

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