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승정원일기 83책 (탈초본 1546책) 정조 7년 12월 2일 기미 25/27 기사 1783년  乾隆(淸/高宗) 48년

    ○ 癸卯十二月初二日辰時, 上御誠正閣。左副承旨與京畿監司·輪對官同爲入侍時, 京畿監司沈頤之, 左副承旨安聖彬, 記事官李祖承, 記注官金鳳顯, 記事官尹行任, 輪對官長興庫直長李英秀, 社稷令金復淳, 掌苑奉事趙雲紀, 養賢庫奉事金良倜, 以次進伏訖。上曰, 民事, 果已就緖耶? 頤之曰, 綸音頒布後, 民情皆爲晏如, 實切萬幸矣。上曰, 邑還上, 素稱難捧, 而今年則尤異常年, 所捧甚多云, 誠是意外矣。頤之曰, 當捧爲二十三萬餘石, 而已捧二十萬石, 餘者不過三萬餘石。以此觀之, 可知民心之易化矣。上曰, 牟還事, 實涉難處, 卿其知之乎? 頤之曰, 三分一代捧, 雖似無妨, 有難盡捧, 其精實區處, 亦爲不便矣。上曰, 抄飢多寡, 較諸穀簿, 果無不及之慮耶? 頤之曰, 賑邑之數, 雖減於昨年, 而以其荐飢之故, 飢口則差多矣。上曰, 今日之召見, 意有在也。如有筵稟之事, 具悉陳之。頤之曰, 道內尤甚十二邑, 或有擧一境開賑者, 或有分面里賙救者, 而之次邑及各鎭各驛, 亦有參量接濟者。抄飢者之多寡損益, 分賑之緩急先後, 亦將隨其勢而不同矣。賑邑, 比今春差少, 民勢, 較今春尤悶急, 列邑未及抄飢, 賑穀數爻, 姑難的知, 而以今災邑事勢, 參以今春已例, 則請得三萬石穀物, 然後可以營賑。常賑耗一萬石, 營賑穀一萬石, 賑廳錢一萬兩, 所貿邸人役價屯穀大同雜費空名帖七百張, 竝許劃下, 則臣謹當另飭操切, 十分節略。或有不足之弊, 則從後仰請, 如有贏餘之數, 則還錄本衙門, 而及今獲蒙處分, 然後可以推移分排, 下詢廟堂, 處之, 何如? 上曰, 依爲之。今日內以草記稟處, 可也。出擧條 頤之曰, 道內還餉, 一竝奉朝令停退, 而其中南陽·水原·金浦·通津·交河·陽川等六邑, 今春所受江都餉米, 不可竝論於元還餉爲言, 而自沁都今方督捧, 楊州一邑當年還耗, 今春特敎除耗, 而北漢餉耗, 不可混同減除爲言, 而自摠廳亦方準捧, 衙門各異, 則沁都·摠廳之執以爲言, 雖非異事。江都米之停退, 摠廳米之減耗當否, 不可不稟請處分, 下詢廟堂處之, 何如? 上曰, 不必詢問, 江都米事, 一體停捧, 摠廳餉耗事, 依還耗例, 一體蕩減, 可也。出擧條 頤之曰, 今春江都米移運時, 水原七百石, 南陽四百石, 船馬雜費爲八十八石, 而取用於元穀中, 尙未有區處矣。癸未乙酉兩年, 亦有江都移運, 而其時以當年耗條, 除給充補云。今此兩邑所受一千一百石, 除其停退之數, 則耗條僅爲七十八石, 雖未能準八十八石之數, 旣有癸未乙酉已例, 今番亦以耗條除給, 以補元穀取用之數, 恐合便宜, 下詢廟堂處之, 何如? 上曰, 依爲之。出擧條  上曰, 設賑法意, 豈亶然哉? 濟其飢乏, 救其浮黃, 俾無顚連流離, 而各自安堵生活, 無負分憂, 臨民之責, 專在於方伯·守宰, 卿須惕念爲之。賑資之或飯或粥, 隨時合宜, 乃是不易之規, 而昨年之賑也, 或有法外宰肉之事云, 此專出於要譽之意。似此等事, 亦爲察飭禁之也。頤之曰, 列邑分賑, 各有異例, 至於要譽之弊而極矣。今番則不可委之於守令, 當自臣營分排矣。命退, 命輪對官進前。英秀進伏。上下詢職姓名。英秀曰, 長興庫直長臣李英秀矣。上曰, 職掌, 奏之。英秀曰, 席子色矣。上曰, 遺在, 幾何? 英秀曰, 各色席子一千五百餘張矣。命退。復淳進伏。上下詢職姓名。復淳曰, 社稷署令臣金復淳矣。上曰, 職掌, 奏之。復淳曰, 神室朔望奉審及逐日修掃事矣。命退。雲紀進伏。上下詢職姓名。雲紀曰, 掌苑署奉事臣趙雲紀矣。上曰, 職掌, 奏之。雲紀曰, 乾果色矣。上曰, 遺在, 幾何? 雲紀曰, 胡桃十五石, 大棗九石, 生栗十石矣。命退。良倜進伏。上下詢職姓名。良倜曰, 養賢庫奉事臣金良倜矣。上曰, 職掌, 奏之。良倜曰, 養士矣。命退。聖彬曰, 典牲署直長閔彝顯, 輪對官當次, 而身有拘忌之疾, 不得入侍矣。上曰, 唯。命退, 承史以次退出。

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