○ 李聖圭, 以吏曹言啓曰, 癸卯六月二十三日, 本曹草記批答。傳曰, 陵殿官文蔭窠之無論參上參下, 岐換互陞降, 特不過隨時變通之政, 已例不啻斑斑。況今僉議, 無甚參差, 自明日都政, 依議施行窠數事, 依草記施行, 前頭又有不足之弊, 更加陞作, 亦何妨也? 大抵出六, 未及區處, 復職間多竝施之故, 虛司果之盡數調用, 杳無其期, 此則鄭判府事議, 誠得之矣。此後除非不得已復職, 分排虛司果, 未付職中, 一從出六次第付職可也。同月二十四日都政時, 齊陵·厚陵·英陵·莊陵, 別檢陞作令, 順康園·昭寧園·仁明園守奉官, 換作文守奉官矣。其時傳敎, 已有前頭又有不足之弊, 則更加陞作, 亦何妨也爲敎。今日參上窠乏之弊, 雖在數年前, 聖鑑已爲洞悉之矣。臣之所奏, 不過事在目下, 不得不仰達者, 而伊時別檢之陞令, 爲四窠, 守奉官之換文參下, 爲三窠, 通以計之, 別檢只減一員而已。今雖更減若干員, 其數不至太多, 又不必更爲作窠, 只以都政之所出窠, 隨缺隨陞, 則恐爲便當, 旣伏承更考草記之命, 故敢啓。傳曰, 依草記施行。