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승정원일기 110책 (탈초본 2132책) 순조 20년 8월 20일 계묘 17/16 기사 1820년  嘉慶(淸/仁宗) 25년

    ○ 庚辰八月二十日辰時, 上御熙政堂。 藥房入診, 大臣·備局堂上引見入侍時, 都提調韓用龜, 提調金魯敬, 副提調宋祥濂, 假注書宋奎弼, 記注官趙德履·金樂澧, 檢校待敎徐憙淳, 右承旨韓義運, 假注書許茂, 事變假注書丁載榮, 右議政南公轍, 漢城判尹李羲甲, 吏曹判書金履喬, 知中樞府事李存秀, 刑曹判書洪羲臣, 漢城左尹張鉉宅, 行護軍徐春輔, 行大司成李龍秀, 行護軍徐有聞·金逌根, 禮曹參判李止淵以次進伏。 醫官吳千根·李命運·白成五進伏楹外訖。 用龜曰, 日氣稍涼, 聖體, 若何? 上曰, 一樣矣。 用龜曰, 寢睡·水剌之節, 何如? 上曰, 一樣矣。 用龜曰, 王大妃殿氣候, 何如? 上曰, 一樣, 而各殿宮氣候一樣矣。 仍命醫官入診。 千根等以次診候訖, 退伏奏曰, 脈候左右三部調均矣。 用龜曰, 向日醫官事, 極爲駭然, 至有拿處之命, 論其罪犯, 豈可遽議徑放, 而今日診筵, 亦不可無醫官, 且首醫則與他醫官稍異, 故於昨日草記, 姑爲請放, 使之戴罪擧行, 而顧臣旣忝一院之長, 常時不能董飭, 至有此無前之擧, 不勝惶蹙, 敢進短箚, 略陳不職之罪, 而至蒙安心勿辭之批, 益不勝惶感之極, 第臣衰病相仍, 一經公役, 輒累日委痛, 以若病狀, 有難承當, 伏願體諒焉。 上曰, 次對爲之。 公轍曰, 懿陵局內水道疏築物力, 頃以禁御兩營錢各一千兩, 分排區劃矣。 卽見補土堂上楊州牧使柳相亮狀啓, 則以爲, 陵所水道及沙汰諸處, 次第補築, 而以此劃下之錢, 磨鍊容入, 則不足之數, 尙有七八百兩, 然後可以完役, 更令廟堂稟旨區劃爲請矣。 前劃不能當容入, 有此更請, 兵曹錢六百兩, 使之卽爲劃送, 以爲取用完役之地, 何如? 上曰, 依爲之。 出擧條 公轍曰, 京外儒生李寬等上疏批旨, 有令廟堂稟處之命矣, 取見其疏本, 則備陳先正臣文簡公金昌協道德學問之實, 仍請從祀文廟之典矣。 文簡公金昌協, 蚤襲庭訓, 得賢爲師, ·華國之需, ·專門之業, 隱然儒林間, 望隆而地崇, 自遭其家禍以後, 脫屣軒冕, 隱居求道, 專意用工於···之學, 爲安身立命之所, 蓋其仁明成質, 簡易爲心, 淸通灑落之襟韻, 精透超邁之見識, 眞不世之名儒也。 至於經傳訓義之闡明微奧, 分析絲毫, 多有發前未發者, 雖謂之先正臣李珥後一人, 可也。 今此從享之請, 可見多士公共之論, 而第念聖廡躋享, 事體至爲重大, 自前博採一國之公議, 從違間自上裁度處分, 不曾有自廟堂稟處之事, 臣於此, 不敢循例覆奏, 而如五賢·兩文正之從享, 京外章甫, 積年積誠, 屢疏陳請, 久而後成焉。 其事愈重, 其禮愈盛, 則其成愈貴遲久, 區區愚見, 則姑爲徐徐, 更待公議, 甚好, 故敢此仰達矣。 上曰, 依爲之。 出擧條 公轍曰, 卽見慶尙左兵使趙恩錫狀啓, 則以爲, 本營防卒給代, 每朔每名, 只有布一疋許, 無他料米, 實有難保之慮, 至於營還, 戶少穀多, 反爲民弊, 不可不竝卽矯捄, 而山城米應分耗爲九百五十八石零, 除却各項用下二百餘石, 其餘則年年添錄, 此亦切悶, 就中二百石, 依統營別餉米耗例, 特爲每年劃付於防卒朔料之資, 所餘耗米, 亦令某樣區處事, 請令廟堂稟旨分付矣。 今之支放, 卽古之支放, 不必闊狹於無前之例, 城餉雖或有目下稍多之處, 一遇歉荒, 至難得無奈何者, 卽穀物也。 近來營閫之臣, 每有此等之請, 殊非遠慮, 且餉穀之漸滋, 自當有從他裒益之道, 置之, 何如? 上曰, 依爲之。 出擧條 公轍曰, 科試之公不公·嚴不嚴, 專在於主司之得人與不得人, 精白一心, 公耳忘私, 今日在廷諸臣, 必不待加勉而有所對揚, 雖以場內凡事言之, 先自初試, 一遵新頒節目, 隨事察飭, 俾無雜亂, 亦是試官之責, 欲捄科弊, 先自主試, 各別掄揀, 然後可期淸肅。今番庭試初試及講經時試官, 另飭該曹, 使之拔例擇擬, 近來規避成習, 擬望之後, 無端違牌者, 甚多, 豈有如許事體, 衆所共知情勢實病外, 違牌人一依新定令甲, 令政院直捧竄配傳旨, 無受由而擅自下鄕者, 近多有之。每當差享及試望分排之時, 作爲應頉, 事未前有, 萬萬駭然, 試望擬入之後, 或有以此稱頉者, 亦令政院捧現告, 令該府拿問重勘, 以此意前期嚴飭, 俾無犯科, 何如? 上曰, 依爲之。 出擧條  仍命大臣就座, 諸宰奏事。 存秀曰, 本廳吏輩, 竊簿盜財, 恣行無憚, 遂至經用不足, 若此不已, 將至於無惠廳而後已, 溯考文簿, 略加査櫛, 則或初不上下, 而冒錄於上下, 或以爲捧上, 而不載於捧上, 或刀擦印蹟, 潛自減數, 或虛作那移, 仍無歸屬, 已現發者, 米錢木合折錢爲五十餘萬兩, 渠輩以幺麽蟣蝨之賤, 恣竊公貨, 若探私橐, 歲以爲常, 至於此極, 究厥所犯, 死有餘罪, 此專由於紀綱漸壞, 刑法不行, 三尺雖嚴, 徒爲空言而然也。 若使渠輩, 終焉假息, 則奸濫莫懲, 偸竊日滋, 頒貢給代, 無以支繼, 其爲國家難言之憂, 殆有甚於水旱兵革, 且貢賦事體, 與尋常公貨, 尤有異焉, 故漕米十石以上偸取者, 尙有梟示之法, 況此折錢累鉅萬之偸竊者乎? 其中池允祥·盧性欽·鄭光天三漢, 偸竊之數, 或過十萬兩, 或爲七萬兩, 或近五萬兩, 而現發後周年所納零星, 今此三漢之所犯, 自有逋吏以來未有若此之尤無良者也, 不可以納未納, 有所低仰, 竝施梟示之律, 依法典, 令秋曹先捧侤音後, 出付軍門擧行, 稅貢, 則雖身死, 有妻子財産者許徵, 自是法典, 徵捧之道, 亦令該曹依法典爲之。 其餘次犯諸漢, 所偸或過二萬, 或爲累千, 律之以經法, 俱合置辟, 而姑以周年爲限, 令該曹嚴刑督捧, 其前準納者, 特爲免死, 施以次律, 若不畢納, 更爲稟處用律, 則嚴法之中, 亦爲傅生之道, 而三漢之先施梟示, 事係一律, 次犯之姑緩用律, 係是特典, 竝下詢大臣處之, 何如? 上曰, 大臣之意, 何如? 右議政南公轍曰, 京外逋吏, 自前何限, 而未有如今番惠廳事之萬萬驚惋, 渠輩罪犯, 論以王法, 萬死有餘, 國人皆曰可殺, 其中三漢, 依惠堂所奏, 令秋曹捧結案, 先爲正法, 旣已査逋之後, 累鉅萬公貨, 不可全失, 且旣非不待時斬之罪人, 則爲念收斂之方, 姑貸一縷, 不害爲嚴法傅生之道, 其餘次犯諸漢之用律, 亦依惠堂言施行, 恐好矣。 上曰, 依爲之。 出擧條 存秀曰, 本廳下屬逋負之弊, 苟究其源, 固非一端, 而擧其最大者, 卽所謂都中米邊債也, 剩米等應食者, 都歸米邊, 而猶爲不足, 年增歲加, 遂至於二十餘萬兩之多, 邊米無以抵當, 於是乎邪僻之心生, 偸竊之手作, 左右攛那, 大小標竊, 轉成累萬之逋矣。 以外方言之, 漕轉近處, 興販一禁, 所持物竝屬官, 此亦不過私債之興販也, 而設法而嚴禁者, 漕倉下屬及漕卒輩所沾漑者, 盡歸興販, 則渠輩犯手於公穀, 漕納欠縮, 故有此嚴禁也, 外邑漕轉處猶然, 況諸道漕轉都捧之處, 一國貢賦所重之地乎? 先朝癸丑, 太倉亦有此弊, 以一竝蕩滌, 成出節目, 別單啓下, 至今遵行, 亦依此例, 所謂都中之邊債, 一竝蕩滌, 近來漕運上納之時, 每多欠縮之弊, 實由於漕倉近處私債興販之弊也。 一竝嚴禁, 所持物屬官之意, 申明知委於漕轉各該道, 今此本廳諸般捄弊之方, 亦依癸丑地部之例, 成節目啓下, 以爲永久遵行之地, 似有實效, 故敢此仰達矣。 上曰, 依爲之。 出擧條 存秀曰, 均廳之給代於各營各司, 皆有排月定式給代云者, 給之於減疋之代, 未減疋之前, 各營各司, 皆有收布之月限, 故給代磨鍊之初, 依當初收布之限, 排月定式矣。 近來各衙門, 皆以預下, 視若常例, 預下除留之際, 本廳每致眩亂, 此亦下輩售奸之階也。 令廟堂捧甘于給代各衙門, 預下一款, 嚴加防塞, 實爲本廳祛弊之一道, 故敢此仰達矣。 上曰, 依爲之。 出擧條 義運曰, 賓對不參兩司諸臺, 竝推考, 何如? 上曰, 依爲之。 出擧條  仍命退, 諸臣以次退出。

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