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승정원일기
정보화사업
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왕 대
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기록유산
개 요
범 례
공지 사항
인조 - 고종
16대 인조(1623년~)
17대 효종(1649년~)
18대 현종(1659년~)
19대 숙종(1674년~)
20대 경종(1720년~)
21대 영조(1724년~)
22대 정조(1776년~)
23대 순조(1800년~)
24대 헌종(1834년~)
25대 철종(1849년~)
26대 고종(1863년~)
27대 순종(1907년~)
정조 14년
1790년 (경술)
1월
2월
3월
4월
5월
6월
7월
8월
10월
11월
12월
승정원일기 89책(탈초본 1681책) 정조 14년 8월 23일 신미
1790년 乾隆(淸/高宗) 55년
1일
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21일
22일
23일
24일
25일
26일
27일
28일
29일
晴
行都承旨
金光默
坐
。行左承旨
洪明浩
坐
。右承旨
徐瀅修
坐直
。左副承旨
申耆
坐
。右副承旨
尹行任
內閣直。同副承旨
安廷玹
坐直
。注書
徐有聞
仕直
一員未差。假注書
洪樂游
仕
。事變假注書
金羲淳
仕
。
昌德宮에 머묾. 常參과 經筵을 정지함
○ 上在
昌德宮
。停常參·經筵。
○ 上在
昌德宮
。停常參·經筵。
監察茶時를 한다는 徐瀅修의 啓
○
徐瀅修
啓曰, 大司憲
尹尙東
未肅拜, 執義掌令一員, 持平一員未差, 掌令
閔彝顯
在外, 持平
李鎭宅
牌招啓辭未下, 監察茶時之意, 敢啓。傳曰, 知道。
○
徐瀅修
啓曰, 大司憲
尹尙東
未肅拜, 執義掌令一員, 持平一員未差, 掌令
閔彝顯
在外, 持平
李鎭宅
牌招啓辭未下, 監察茶時之意, 敢啓。傳曰, 知道。
○ 傳于
徐瀅修
曰, 右副承旨入侍。
○ 傳于
徐瀅修
曰, 右副承旨入侍。
柳戇에게 관직을 제수함
○ 兵曹參判前望單子入之,
柳戇
落點。
○ 兵曹參判前望單子入之,
柳戇
落點。
○ 以宣傳官射會單子, 傳于
申耆
曰, 名以宣傳官, 小布矢數之十一二矢, 如許武弁, 將有用哉? 罰射一百巡, 分二日爲之, 副行首及之次副首, 一員式輪回監射, 試記書入。
○ 以宣傳官射會單子, 傳于
申耆
曰, 名以宣傳官, 小布矢數之十一二矢, 如許武弁, 將有用哉? 罰射一百巡, 分二日爲之, 副行首及之次副首, 一員式輪回監射, 試記書入。
○
徐瀅修
, 以備邊司言啓曰, 原春監司
尹師國
狀啓, 有草記稟處之命矣。取見其狀本, 則以爲海弊已痼, 有難痛革, 而其中進上情債, 春秋營需, 別卜定, 別貿易等條件, 實爲難支之端。大抵進上之作爲營貢, 一年詳定上下元價, 米爲七十餘石, 錢爲七十餘兩, 以此所受, 萬無作貢之望。營邑下隷情債, 壬寅減爲三千一百二十八兩, 而其中一千六百十八兩, 則節目精約, 更無加減處, 一千五百十兩, 卽是營主人役價, 不可不給代, 營主人情債一千五百十兩內, 一千兩, 明年爲始蕩減, 只以五百兩收捧, 而蕩減千兩之代, 補蔘庫錢中劃出五千兩, 分給二十六邑蔘商, 什二生殖, 每年一千兩式給代, 而錢路斂散, 久必生弊, 限六年丙辰至施行, 六年後則有可以變通者。乙巳年蔘貢設施時, 常賑穀加分耗中, 折米一千五百石, 限八年除出, 而八年之限, 卽在壬子矣, 今若又爲四年退限, 自癸丑至丙辰, 每年一千五百石, 全數付之於補蔘還, 則四年之內, 當爲六千石。自翌年丁巳爲始, 以耗條六百石, 依詳定例作錢, 則可得一千八百兩, 以此計給, 情債之代, 則補蔘錢生殖之規, 五百十兩之收捧, 各浦之弊, 此距六年, 當爲永革, 而其所作錢, 一從市直, 一千五百十兩外有剩, 則還爲作還加錄。補蔘還事, 令廟堂, 稟旨分付, 而至於營需, 自今秋爲始, 魚藿等物, 限三分一許減, 別卜定, 別貿易, 著爲節目, 永永防塞。寺弊則寺敗僧殘, 到處皆然, 苟究其源, 則紙地卜定, 路卜責立, 下屬侵漁, 肩輿擔軍, 石·木刻役等別役及種種官納之煩重, 而再昨年, 已自朝家革罷之禁斷之, 到今釐弊, 不過紙地·繩鞋等責納, 自臣營可以禁斷, 而但長安一寺, 以本道最久之大刹, 太半傾圮, 僧徒不過四五名, 囊橐俱罄, 旣乏糊口之資, 使客絡續, 又無息肩之日。先就其最急處, 自臣營題給物力, 令本府, 略助給糧, 以爲鳩財始役之地, 外此僧人安接之方, 寺刹蘇殘之道, 姑待營邑爛商, 追後啓聞爲辭矣。詳定不足, 營下作貢, 其勢末由, 情債爲弊, 變通條件, 亦有條理, 而第念各邑營主人, 多是營屬, 各邑進上之來到, 營下物種之住接, 必於主人, 營門之周旋, 亦由主人, 則今雖別給役價, 永罷情債, 而時日稍久之後, 情債之又復侵徵, 難保其必無, 旣給無於古之役價, 不免復如前之情債, 則無義莫此爲甚。如是變通之後, 果能痛禁奸弊, 永無弊端與否, 不可不更問而處之。至於下隷情債之一千六百餘兩, 非但數爻之夥然, 此與京司員役元人情之自朝家定式者, 有異, 則減罷之間, 豈無其道? 仍舊之請, 有傷事體, 該道道臣推考, 此兩條, 更令商量, 論理狀聞後稟處。營需物種之三分一許減, 別卜定, 別貿易之永永革罷, 著爲節目, 殊甚得宜。寺弊中紙地·繩鞋責納, 永爲禁斷, 僧人安接之方, 寺刹蘇殘之道, 營邑爛商, 卽爲啓聞事, 依狀請施行,
長安寺
修補之役, 亦爲着實董飭, 俾有實效之意, 一體分付, 何如? 傳曰, 允。狀辭甚精詳, 問備一款安徐, 諸般釐弊, 指一斯速成節目狀聞, 俾有實效。至於海戶之弊, 不聞則已, 旣聞之, 又命釐正, 而若干情債, 減必復出, 亦有違於損上之義, 自進上與營需, 元定數爻, 須有別般釐正, 可以救得一分弊瘼。大抵民則一也, 陸民何爲而自二疋減各一疋之役, 海戶何爲而一夫一年所徵, 殆過三十兩內外云, 虐政虐政訓有如許虐政乎? 稔聞本道海戶之弊, 本道所貢朔膳物膳之魚鮮, 不近口者已久矣。以不近口之物, 備例封進, 豈非無義之甚乎? 然任土之貢, 事面自異, 雖以存羊之意, 姑且存其名目, 而其中最不緊最無用, 而貽弊則均者, 莫宜減除, 亦無不可。況八道中朔膳魚鮮物種之夥然, 本道爲最, 卿等若見貢膳定例, 則可以知其數爻, 豈其魚物與海戶, 古則多且盛, 故磨鍊如是夥然乎? 除弊宜自貢獻始, 道內山沿野邑, 納于京司者, 無論物膳朔膳及藥料其他物種, 別具成冊, 仍以詳定受價, 式例及辦備難易, 逐名懸註, 卽爲狀聞後, 自本司, 論理稟處。前此釐弊之命已久, 而近始登聞, 稽忽甚矣。今番則無或遲滯之意, 一體申飭, 可也。
○
徐瀅修
, 以備邊司言啓曰, 原春監司
尹師國
狀啓, 有草記稟處之命矣。取見其狀本, 則以爲海弊已痼, 有難痛革, 而其中進上情債, 春秋營需, 別卜定, 別貿易等條件, 實爲難支之端。大抵進上之作爲營貢, 一年詳定上下元價, 米爲七十餘石, 錢爲七十餘兩, 以此所受, 萬無作貢之望。營邑下隷情債, 壬寅減爲三千一百二十八兩, 而其中一千六百十八兩, 則節目精約, 更無加減處, 一千五百十兩, 卽是營主人役價, 不可不給代, 營主人情債一千五百十兩內, 一千兩, 明年爲始蕩減, 只以五百兩收捧, 而蕩減千兩之代, 補蔘庫錢中劃出五千兩, 分給二十六邑蔘商, 什二生殖, 每年一千兩式給代, 而錢路斂散, 久必生弊, 限六年丙辰至施行, 六年後則有可以變通者。乙巳年蔘貢設施時, 常賑穀加分耗中, 折米一千五百石, 限八年除出, 而八年之限, 卽在...
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