睦來善이 입시하여 三甲 백성들에게 절실한 食鹽의 문제를 해결하기 위해 南道防布를 변통하는 방법에 대해 논의함
○ 睦來善曰, 三·甲民俗, 耕種雜穀, 而以爲食, 織布養狗, 而以爲衣, 固是邊民之本業, 而舍其本業, 貪利忘生。乙丑年犯越生事, 貽辱國家之後, 邊民無狀, 反懷怨心, 必曰無衣無食, 勢將泮散云云。其爲情狀, 雖甚可惡, 而在朝家撫恤之道, 固不可少緩。臣取考備局丁卯年文書, 則南道暗行御史書啓, 三·甲之民, 窮不資生, 食鹽最難, 若以南道防布, 換鹽留置北靑, 使三·甲及各鎭堡之民, 運鹽分食, 待秋成, 鹽一石之價, 捧米十斗, 一以補軍餉, 一以通鹽路, 則事甚兩便, 請詢本道, 知其便否而處之, 宜當云。故備局覆啓, 請詢本道, 則其時監司, 備陳南兵使所報, 以爲窒礙難行云云, 故其事遂寢。臣詳問其便否於曾經南道虞侯及三甲邊將, 則皆以爲三·甲之民, 不事本業, 犯越生事之罪, 死無可惜, 而蔘路阻絶, 喫着多艱, 自朝家若不別樣顧恤, 則勢難安頓, 通鹽之策, 最爲緊切。若以南道防布, 從市直換鹽, 輸納于北靑, 折價以米, 分給於三·甲等地之民, 以補軍餉, 以通鹽路, 則實是恤民之急務云。臣問其南道防布之幾何, 則自安邊至洪原八邑所居防軍一千九百六十五名, 而每名所納保布二疋, 合以計之, 則七十八同三十疋, 而八邑頭目, 輸納於三·甲兩邑及各鎭堡, 則或稱城池修築, 或稱軍器修補, 或稱馬直雇價, 或稱朔紙之價, 虛張會減, 徒爲入己之資, 且其各處防布, 兵使都執, 任意出入, 故一尺之布, 不及邊民云云。其間雖有公用之處, 七十八同三十疋之布, 豈盡歸於公用也? 考見其時監司枚擧南兵使之報狀, 則以爲三·甲及列鎭堡之民, 皆言以布換鹽, 分給民間, 則國恩罔極, 而但南軍除番之布, 爲其給代之價, 今若以布貿鹽, 使民分食, 公私無益云云。且甲山府, 官糴數多, 不必增穀, 三水郡官糴數少, 鹽路絶遠, 以布換鹽, 莫不欣然, 或折米貿鹽, 折米納布宜當云云。南道守令, 則以爲三·甲兩邑地, 不産布, 布之緊用, 有倍於鹽, 南邑雖在海邊, 旣無私盆, 柴場且遠, 依前收布似當云云, 而今聞曾經虞侯·邊將之言, 則南軍除番之布, 本是五升布, 以其一疋, 貿鹽三斗, 則價重鹽少, 別無害民之弊, 南道海邊, 雖云旣無私盆, 柴場且遠, 各邑海邊處處有私盆者, 許人煮鹽, 收稅通用, 況且永興·文川之民, 創爲土盆, 煮鹽興販, 豈有鹽貴之理? 且其甲山, 官糴數多, 則不願增穀云者, 勢或然矣, 而列鎭堡, 本無軍餉之所儲, 以其鹽價之米, 分給於列鎭堡, 使之糶糴, 而毋論田米·耗米, 從便許納, 則足以儲置軍餉, 有何不便之事也? 南道防布元數, 多至七十八同三十疋, 一半三十九同十五疋, 則以布輸納於三·甲兩邑及列鎭堡, 以爲公用之地, 一半三十九同十五疋, 則貿鹽, 而每一疋, 貿納四斗, 則可至五百二十四石, 如是變通, 則於公於私, 實爲兩便, 絶塞窮民, 亦可食鹽矣。南道防軍, 若以五升布一疋, 貿納四斗鹽, 謂之不便, 而依古例入防三·甲, 則其爲便否利害當否, 如何? 伊時南兵使, 徒以捧布爲利, 罔念通鹽之切急, 陳弊瞞報, 以售沮撓之計, 可勝痛哉? 自今爲始, 一半收布, 一半貿鹽, 以通鹽路, 似合事宜, 更令本道, 詢問三·甲民情, 從速啓聞, 以爲稟處之地, 何如? 上曰, 依爲之。出備局謄錄
○ 睦來善曰, 三·甲民俗, 耕種雜穀, 而以爲食, 織布養狗, 而以爲衣, 固是邊民之本業, 而舍其本業, 貪利忘生。乙丑年犯越生事, 貽辱國家之後, 邊民無狀, 反懷怨心, 必曰無衣無食, 勢將泮散云云。其爲情狀, 雖甚可惡, 而在朝家撫恤之道, 固不可少緩。臣取考備局丁卯年文書, 則南道暗行御史書啓, 三·甲之民, 窮不資生, 食鹽最難, 若以南道防布, 換鹽留置...